なぜ真田家の家紋は6枚のお金を並べる?

今年の大河ドラマ「真田丸」が人気ですね!

関東地区のビデオリサーチによれば、第9回までの平均視聴率は16.6%だそうです。

タイトルの「真田丸」は、江戸幕府が豊臣家を滅ぼした戦である大坂の陣で真田幸村が戦のために築いた城の名前です。
幸村は、大阪城の中でも一番守りが手薄といわれる場所に真田丸を築き、徳川軍と見事な攻防戦を繰り広げた名将として知られています。(関ヶ原のあと真田幸村は父昌幸とともに九度山で謹慎していた)

死後、島津家に「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)古(いにしえ)よりの物語にもこれなき由(よし)」と賞賛されました。

ところで、真田幸村の家紋は穴の開いた銭を六枚並べた六文銭です。
他の戦国武将の家紋は、植物や動物をモチーフにしたものが多いようですが、銭の家紋というのは特徴的ではないでしょうか。今回は、そうした6文銭の家紋の由来と、意味について紹介したいと思います。

 

六文銭の由来

真田幸村はどうして、六紋銭を家紋として使うようになったのでしょうか。
その由来にはいくつかの説があります。

例えば、幸村が子ども時代の出来事ですが、幸村の父である、真田昌幸が北条氏の大軍に追われたことがありました。
賢い少年であった幸村は、永楽通宝の絵を描いた旗を武将たちに持たせて夜討ちを行ったといいます。

実は、この永楽通宝は北条家の重臣の家紋でありました。
奇襲を受けた北条氏が、家臣の反乱が起きたと勘違いして戸惑い、混乱するのに乗じて幸村は父を助けたということです。

昌幸は、幸村の手柄をほめたたえて、以後六文銭を旗印にするよう、命じたという説です。

他方で、海野氏という信濃国小県郡海野荘(現在の長野県東御市本海野)を本拠地とした武家の士族が六文銭を家紋にしていたことがわかっています。

真田家の六文銭はここに由来するのではないかという説もあります。
現在では、後者の説が有力なようです。

 

六文銭の意味

穴あき銭が六個ならんだ珍しい六文銭の家紋ですが、これには仏教的な意味があります。
冥銭といって「三途の川の渡し賃」として亡くなった人の棺にお金を入れることがありますが、日本では三途の川の渡し賃は六文であるとされています。

六文銭が手に入らない現代では、六文銭を印刷した紙が代わりに使用されているようです。
ちなみに、中国や台湾、ベトナムでの冥銭は紙幣に似せて作ったお金で、紙銭と呼ばれています。
額面も様々ですが、一般的に大きな額を記入することが多いようです。

このように聞くと、三途の川を渡るのは、海外の方が高いのかと思ってしまいそうですが、そうではありません。
祖先に対する思いの大きさを表すために大きな額を記入するということのようです。
真田家が六文銭を家紋としていたのは、戦やその他日常の駆け引きについても死をも恐れずに立ち向かう、不惜身命の精神で臨んでいることを表しているといわれています。

つまり、六文銭を家紋にすることで、死を意識する反面、強烈な生を得るということでしょうか。
これは、私見にすぎませんが死と生はコインの表と裏のようなものではないかと思う時があります。
生あるものは必ず死を迎えますから、生まれた瞬間から死に向かって進み、いわば、死ぬために生きるようなものかもしれないとも考えられます。
しかし、他方で死を意識するからこそ充実した生をおくることができるともいえるのではないでしょうか。

定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候

真田幸村の言葉です。
明日はどうなるかわからない戦乱の世を生きた彼は、日々、死と向き合いながらも、強烈なまでの生を生きた人なのではないかと思います。

 

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