コイン製作で知るべき7つの用語

昨年からSAKAMOTOではオリジナルコインや記念コインの製作の依頼が増えています。

お客様とオリジナルコインのデザインの話をしていて用語があまり伝わらないことがあります。

例えば「コバは磨きますか?

お客様にいっても伝わりません。逆に「コバ磨いてください」と言われたら同業者の可能性があります。ちなみに小林さんのことではありません。

今回はコインやメダルやキーホルダーなどの金属製作に関係する専門用語を少し紹介したいと思います。(覚える必要はありません。テストにもでません。)

 

オリジナルコインに関する専門用語

オリジナルコインやメダルを製作するうえで知っておいたら便利な7つの用語を紹介します。

コバ

コインの側面部分のこと。側面がピカッと光るようにしたい場合はコバを磨きます。ぎゃくにコバをそんなに磨かないで自然な仕上げにするのもありです。

 

地面

コインの文字やモチーフが入ってない平らな地面の部分。コインの凸部分は磨いて光沢をだし、地面の部分は光沢をおさえる仕上げにすることが多い。コインの地面の光沢をおさえることで凸部分のデザインがより際立つ。

 

ヘリ

コインの周辺の地面から一段高くなっている部分。コインのヘリの幅をどうするかもコインデザインの一部。

 

文字凸、文字凹

コインの地面から一段高くなっている文字を文字凸(モジとつ)、一段低くなっている文字を文字凹(もじへこ)と呼ぶ。図のコインではヘリと文字凸の部分が一番高く、次に地面、そして文字凹の部分が一番低くなる。

 

平彫り

平彫り(ひらぼり)。金型の彫刻手法で地面に平行に平らに彫刻すること。コインの上に下敷きをおいてガタガタしなければヒラ彫り。SAKAMOTOは金型屋ですので、どんなフォントやロゴ、梵字などの変わった文字も対応できます。詳細は金型製作のページへ。

 

肉彫り

肉彫り(にくぼり)。金型の彫刻手法で立体的に彫刻すること。

シンプルに山なりにする場合や人物像など肉感を正確に再現する場合など様々な表現方法がある。詳細は金型製作のページへ。

 

バフ磨き・バフ仕上げ

金属表面をきれいに磨く加工法。皮や布などの柔らかい材質のもの(バフ)に砥粒を付け、このバフを道具で回転させながら金属表面に当てて磨いていく。

例えば 板バフとよばれる磨き加工は、地面に平行に当てるため、製品の一番高い部分を磨くこととなる。図ではヘリと文字凸の部分。

 

(10/12 更新)
コイン製作用語集のページをつくりました。
分からない用語があればこちらでご確認ください!

 

いかがでしたか? これだけ知っていれば製作所さんと話がしやすいかもしれません。

また次回、コインの磨きやメッキの種類、手法についても触れていきたいと思います。

 

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古代ギリシャ銀貨、4ドラクマを追う

現在、ギリシャで使用されている1ユーロのデザインを見たことがある人は多いでしょうか。
デザインの原型は、ギリシャ銀貨のテトラドラクマ銀貨です。

テトラドラクマ銀貨は紀元前449年〜413年くらいの約30年間、アテネで発行されていました。
実は、このテトラドラクマ銀貨はコレクターの間で、とても人気のあるコインなのだとか。

実際にコインを見ると、なるほど、納得。

ドラクマ銀貨の人気の秘訣が理解できるような気がします。

コインの表面にはギリシャ人の横顔、裏面には大きな目が印象的なフクロウの彫刻が施されています。
特に、フクロウのまん丸の目とぽってりとふくらみを持たせたボディは魅力的で、一度見たら忘れられないデザインです。
今回は、見る者を惹きつけてやまないコイン、アテネのテトラドラクマの謎に迫っていきます。

 

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六文銭(アイラブ東京)

 

■テトラドラクマの意味と使われた時代とは?

テトラドラクマのテトラとは、ギリシャ語でを意味します。ドラクマはお金の単位です。

つまり、テトラドラクマは4ドラクマとなります。紀元前5世紀以降、アテネで広く使用されていました。

当時のアテネは、都市国家として栄えており、市民団体であるポリスを中心に経済、文化ともに発展していきました。
アテネの三大悲劇作家の一人、ソフォクレスの『オイディプス王』に描かれる人間の心理描写は見事です。

人間の心理や運命をテーマにしたこの作品に、当時のアテネの人々の意識の高さを感じます。
経済の安定とともに、文化も成熟していた証ではないでしょうか。

現代でもその魅力を放ち続ける、テトラドラクマ。
優れたデザインと確かな職人技術の賜物でしょう。

テトラドラクマ銀貨は、文化と芸術を愛するアテネ市民の豊かな社会が生んだ「芸術品」であると思います。

 

■デザインが意味するものとは?

テトラドラクマ銀貨

テトラドラクマ銀貨の表面に彫られているデザインは、かぶとをかぶったアテナ女神の胸像です。
アテナ女神は、古代ギリシャの都市国家アテネの守護神です。

古代ギリシャ語のAthenaアテーナーは、ギリシャ神話に登場します。
知恵・芸術・工芸・戦略をつかさどる女神で、アルテミス、ヘスティアーと並ぶ三大処女神としてもよく知られています。

コインの裏面のデザインは、フクロウとオリーブ、そしてAOEという文字です。ギリシャ神話に登場するオリーブは平和の象徴とされています。

かつて、アテナ女神はアテネの守護神の座をめぐって、海神ポセイドンと対立していました。

「最も人々に役に立つ贈り物を贈った者に支配権を与えよう。」と言う大神ゼウス。女神はオリーブを作り出して支配権を得ることができたのです。

フクロウは女神の象徴です。アテナ女神は、神殿に自分の聖なる動物としてフクロウを持っていたといいます。

AOEの文字については、女神アテネを意味している言葉と考えられています。
近代から現代にかけてギリシャは、何度も、コインのデザインにドラクマのフクロウを採用しています。

ギリシャコインと言えば、ドラクマということでしょうか。
ドラクマに対する思い入れの強さを感じます。

 

■テトラドラクマの素材、エレクトロンとは?

テトラドラクマは、エレクトロンとよばれる天然の金銀合金でつくられていました。
エレクトロンはギリシャ語で琥珀を意味します。

テトラドラクマに代表されるエレクトロン貨は、バクトーロス川の河底から得られた砂金に打刻してつくられます。
エレクトロン貨は、紀元前7世紀の終わりくらいに発明されたといわれています。

その後、リディア(現在のトルコ)王により紀元前600年くらいに品質が安定し、ギリシャやローマへと広まっていきました。

ちなみに、東アジアでは溶かして作る鋳造貨幣が中心であったのに対して、ヨーロッパではたたいて作る打刻貨幣が中心でした。

エレクトロンを作り出す技術や、デザインの高度さとデザインの持つ意味の深さ、どれをとっても見事としかいいようがありません。

これらすべてが、紀元前に行われていたのですから驚きです。
美しい貨幣に見惚れながら、古代ギリシャの時代に思いを馳せてみるのもいいものです。

弊社では記念メダルオリジナルコインの製作を承っています。
職人の確かな技術でつくられた「本物」をあなたにお届けします。

 

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なぜ真田家の家紋は6枚のお金を並べる?

今年の大河ドラマ「真田丸」が人気ですね!

関東地区のビデオリサーチによれば、第9回までの平均視聴率は16.6%だそうです。

タイトルの「真田丸」は、江戸幕府が豊臣家を滅ぼした戦である大坂の陣で真田幸村が戦のために築いた城の名前です。
幸村は、大阪城の中でも一番守りが手薄といわれる場所に真田丸を築き、徳川軍と見事な攻防戦を繰り広げた名将として知られています。(関ヶ原のあと真田幸村は父昌幸とともに九度山で謹慎していた)

死後、島津家に「真田日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)古(いにしえ)よりの物語にもこれなき由(よし)」と賞賛されました。

ところで、真田幸村の家紋は穴の開いた銭を六枚並べた六文銭です。
他の戦国武将の家紋は、植物や動物をモチーフにしたものが多いようですが、銭の家紋というのは特徴的ではないでしょうか。今回は、そうした6文銭の家紋の由来と、意味について紹介したいと思います。

 

六文銭の由来

真田幸村はどうして、六紋銭を家紋として使うようになったのでしょうか。
その由来にはいくつかの説があります。

例えば、幸村が子ども時代の出来事ですが、幸村の父である、真田昌幸が北条氏の大軍に追われたことがありました。
賢い少年であった幸村は、永楽通宝の絵を描いた旗を武将たちに持たせて夜討ちを行ったといいます。

実は、この永楽通宝は北条家の重臣の家紋でありました。
奇襲を受けた北条氏が、家臣の反乱が起きたと勘違いして戸惑い、混乱するのに乗じて幸村は父を助けたということです。

昌幸は、幸村の手柄をほめたたえて、以後六文銭を旗印にするよう、命じたという説です。

他方で、海野氏という信濃国小県郡海野荘(現在の長野県東御市本海野)を本拠地とした武家の士族が六文銭を家紋にしていたことがわかっています。

真田家の六文銭はここに由来するのではないかという説もあります。
現在では、後者の説が有力なようです。

 

六文銭の意味

穴あき銭が六個ならんだ珍しい六文銭の家紋ですが、これには仏教的な意味があります。
冥銭といって「三途の川の渡し賃」として亡くなった人の棺にお金を入れることがありますが、日本では三途の川の渡し賃は六文であるとされています。

六文銭が手に入らない現代では、六文銭を印刷した紙が代わりに使用されているようです。
ちなみに、中国や台湾、ベトナムでの冥銭は紙幣に似せて作ったお金で、紙銭と呼ばれています。
額面も様々ですが、一般的に大きな額を記入することが多いようです。

このように聞くと、三途の川を渡るのは、海外の方が高いのかと思ってしまいそうですが、そうではありません。
祖先に対する思いの大きさを表すために大きな額を記入するということのようです。
真田家が六文銭を家紋としていたのは、戦やその他日常の駆け引きについても死をも恐れずに立ち向かう、不惜身命の精神で臨んでいることを表しているといわれています。

つまり、六文銭を家紋にすることで、死を意識する反面、強烈な生を得るということでしょうか。
これは、私見にすぎませんが死と生はコインの表と裏のようなものではないかと思う時があります。
生あるものは必ず死を迎えますから、生まれた瞬間から死に向かって進み、いわば、死ぬために生きるようなものかもしれないとも考えられます。
しかし、他方で死を意識するからこそ充実した生をおくることができるともいえるのではないでしょうか。

定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候

真田幸村の言葉です。
明日はどうなるかわからない戦乱の世を生きた彼は、日々、死と向き合いながらも、強烈なまでの生を生きた人なのではないかと思います。

 

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オリジナルコイン・メダルの製造

東京コイン製作所(量産)

 

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刀剣乱舞と天下五剣

江戸通貨 / 東京江戸ウィーク2016

(萌)

加納夏雄の3つの活動期 – 幕末・明治期の金工界

工芸とは、実用品に芸術的なデザインをするもので、実用性芸術性を兼ね備えたものである必要があります。

幕末・明治期の金工界は武家社会から明治維新による封建社会と近代化の流れの中で大きく影響を受けた時代でありました。

江戸幕府の時代、金工家達は主に、刀剣装飾金具や調度品等に繊細で高度な彫金を施していました。

しかし、明治維新後は廃刀令により刀剣装飾の需要が激減します。さらに、西欧文化の急激な導入から伝統文化への激しい迫害も起こりました。幕末から明治維新にかけて、多くの伝統工芸家たちは苦境を強いられています。

こうした動乱の時代に、終始変わらぬ金工技術の活躍の場をもった加納夏雄という人物は非常に稀有な存在です。

彼は、江戸幕府から引き継がれた伝統工芸の芸術性と明治維新後に需要が高まった実用性とを融合させることに成功した人物だと思います。

 

3つの活動期・功績

加納夏雄の活動期は3つに分けられます。

まず、草創期の刀剣装飾時代です。

1846年頃、夏雄は京都に金工を開業しました。この時代の金工家たちの多くがそうであったように、刀剣装飾を中心とした彼の事業は栄えていました。時代の流れと共に貨幣製造や美術工芸分野へ移っていきますが、草創期の制作体制にこそ彼の事業が新時代に対応し得た秘訣があるようです。

それは、その生産が個人作家の制作の範囲を超えた量産の形態をもっていたということです。夏雄の指導下に複数の職人たちは分業をし、量産システムのもとで刀剣の小道具をつくっていました。

民営のマニュファクチュアとでも言いましょうか。実は、この職人団がそのまま後の近代貨幣製造に関わることとなります。

明治二十圓金貨

また、夏雄は盛況の時代にあっても絶えず自身の腕を磨き続けることに取り組んでいました。古典を範としつつ、洒脱な感覚を加えることにより、新しい期待にも応えられる作品へと昇華させていきます。

刀剣制作期に夏雄が自信の技を磨き、さらに弟子たちを指導して彫金細工所の基礎を固めていったことに意義があるように思います。

 

2つ目は造幣寮時代です。

刀剣装飾の時代が終わり、明治2年、夏雄は政府から彫金家としての腕と、細工所の組織的運営の腕を買われて、造幣寮にて新貨幣の製造に起用されました。これにより民営マニュファクチュアから官営マニュファクチュアの体制をとるに至ります。41歳から50歳まで、夏雄は貨幣寮で貨幣製造事業に関わりました。

 

3つ目は一般美術工芸制作時代です。

明治維新以降、苦境だった工芸界にとって転機が訪れたのは明治6年のウィーン万博でした。明治政府が初めて正式に参加した1873年のウィーン万博は、新しい日本を全世界にアピールしようとする気迫にあふれていました。日本最初の博物館や工芸品の貿易商社である「起立工商会社」が設立され、国策によって離散した工芸職人が再び集められたりもしました。

夏雄は工芸品製造会社である「精工社を興し、東京を中心に一般美術工芸の振興に努めました。
また、彼の作品は数々の博覧会で受賞を重ねるようにもなり、帝室技芸員にも選ばれました。

帝室技芸員の制度は、皇室による美術作家の保護と制作の奨励を目的として明治23年(1890年)に設けられました。

皇室技芸員は、皇室の保護と国家的な名誉を受けた美術家・工芸家でした。当時の作家にとって技芸員に選ばれることはとても名誉なことだったようです。明治23年の東京美術学校彫金科創立とともに同校の教授に就任します。以後、夏雄の手法により今日の日本からも多くの作家が育っているようです。

彫金の手法を完成させた彫金家としての功績と、マニュファクチュアによる経営者としての功績、さらには美術学校時代の後継者の育成等、彼の功績には目を見張るものがあります。

現状に甘んじようとはせずに、常に前進を目指した刀剣具制作時代と、時代の先を見据えてマニュファクチュア経営に取り組んだ造幣寮時代、弟子の育成に励んだ晩年から、現代の私たちが学べることは多いと思います。
特に、後継者を育てる難しさは昔も今も変わらないようで、総務省がまとめた2014年の個人企業経済調査で個人経営の製造業の8割が後継者の確保が出来ていないそうです。

加納夏雄がそれらを為し得たのは、常に時代の先を見据えた視点を持ち、溢れるほどのバイタリティーを持ち続けられたことによるところが大きいのではないでしょうか。

 

オリジナルコイン・記念メダルの製作

東京江戸ウィーク2016

 

 

参考文献
「明治の彫金」たばこと塩の博物館編
mw.nikkei.com
rekishi-club.com

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